フロンティア絶好調!ようこそ!日本三大開拓地、矢吹町へ

HISTORY

いつも車窓から見ていた町、
ちょっと気になっていた。
広がる美しい田園、開拓された土地しい。
休日にぶらりと出かけることにした。
「今」の私まで繋がってきた「昔」
そんな時代の交差に出会う小さな旅。
手頃な大きさの町は、私好みの一日を与えてくれた。
何だかうれしかった。
またぶっと来ようと思う。
ら日常に埋もれた自分をそっと掘り起こしに、
飾り気のない普段着でいられる町に。

01
〜開拓史のプレリュード〜
人が切り開いた風「智景矢吹」
滝八幡と三十三観音磨崖仏群

観音菩薩を始めとする37体の仏像群が彫刻されている隈戸川沿いの崖。江戸時代に書かれた『白河風土記』にはこの崖仏群の記載があり、町名の由来とされている建立の経緯が記されている。崖上に鎮座する滝八幡社の祠は、地名ゆかりの神社とされている。

荒野の中の矢吹町前史

現在の町名になっている「矢吹」の由来は、平安時代後期までさかのぼる。歴史の表舞台に武士が現れようとしていた時代、源氏の棟梁・源義家が奥州の戦乱(前九年の役)に勝利し陣に帰る途中に、神社を建立。矢柄(胴体の竹の部分)で社の屋根を葺いたことが由来とされている。また戦国時代末期には、この地域を支配していた地域諸勢力のひとつ石川(中畠)氏の城下町として、奥州街道の原型となる街道の宿場として町が整えられた。
江戸時代には、参勤交代などで整備された奥州街道と水戸街道などの追分(分岐点)として宿場町が発達、松尾芭蕉も「奥の細道」の旅の途中で矢吹に宿泊するなど人の往来も頻繁になる。また江戸末期の戊辰戦争では、奥羽越列藩度同盟の本陣が矢吹に設けられ、矢吹の主要寺院である大福寺が戦時病院の機能を果たした。
しかし、矢吹の地名が用いられていたのは宿場町周辺で、その大半は荒地が続く平原だった。室町時代の将軍・足利義詮の書状には「行方野」という記述があり、その後も長らく、その呼び名で近代まで呼ばれていた。
明治中期になり、天皇の領地(御料地)の猟を楽しむ御猟場として、ようやく矢吹の名が地名として知られるようになる。行方野の中心にあった矢吹村から現在の矢吹を含めた一帯が「矢吹ヶ原」と呼ばれ、全国でも数少ない宮内省管轄の「御猟場」として、明治から大正にかけての日本近代史にその名を刻んでいる。

02
星吉右衛門が夢見た
豊潤な大地
~開拓の先駆け「西水東流構想」~
美しい田園は戦後の風景

春には新緑の苗、秋には黄金色の稲穂が連なる矢吹の田園。昔からあるような矢吹の風景は、昭和三十一年の羽鳥ダム竣工で劇的に進んだ土地改良事業の成果によって出来た五十年程しか経過していないものなのだ。
明治時代まで行方野と呼ばれた矢吹ヶ原一帯は、隈戸川、泉川、阿武隈川流域に生活圏が発達した地域で、近代まで大半は野生動物が多く生息する手付かずの小松原だった。
その最大の要因は、慢性的な農業用水の不足にあった。平坦な台地状の丘陵を川が侵食して流れているために、川底が低く取水が困難で、農地の開墾が思うように進まなかったといわれている。宿場町としての発展の裏には、凶作や水不足が原因の争いがたびたび起こっていた。
明治維新後、矢吹ヶ原には政府の方針で士族の入植が始まり、また時同じくして御料地(皇室の資産)に指定された地域では、宮内庁の開墾所が開設されて開墾が進められた。しかし、ここでも改善されない農業用水の問題で、計画は進まなかった。

豊な実りを夢見た矢吹の民

農民が苦しむ姿を幼少から目にしていた男が立ち上がる。江戸末期に矢吹町大和内の庄屋の次男として生まれた星吉右衛門は、地域の農民と矢吹ヶ原の治水整備に尽力。明治の初めには、近隣の農民と協力して取水堰(万歳堰)を造成し、地域念願の耕作地拡大の成果を上げたが、根本的な問題には至らなかった。
そこで吉右衛門は大胆な構想を掲げ、その実現に人生を費やすことになる。矢吹ヶ原の西に隣接する天栄村の山村・羽鳥で堰止め、日本海に注ぐ鶴沼川の水を太平洋側の隈戸川に流し、矢吹ヶ原の農業用水として取水するものだった。
「西水東流構想」実現のために吉右衛門は私財を投じて、実地調査や測量、県に計画内容を示す建白書を作成した。建白書の内容は、工事工程ごとにかかる人夫の数や経費、計画の絵地図など実行性が高い綿密なもので、吉右衛門の先見性が窺えるものだった。

  • 大池公園

    町内に点在するため池は、農業用水を少しでも確保しようとした名残り。町民の憩いの場「大池公園」もそんなため池「あゆり沼」を整備して作られたもの。

  • 万歳堰

    吉右衛門と農民が協力して造成した万歳堰は、 現存しその役割を今でも果たしてる。

開拓魂は逆境で育まれる

吉右衛門の作成した建白書は、明治十八年に県に申請されたが、県では賄えきれぬ膨大な予算や、会津側で鶴沼川を利用していた住民の反対により採用されなかった。明治三十年には、水源を猪苗代湖に求める形で変更した建白書を再度申請するも、吉右衛門の計画は日の目を見ることはなかった。
また西水東流構想の実現の壁として、明治時代に入り矢吹ヶ原一帯が御料地として管理されたことも挙げられる。明治二十二年には、皇族をはじめ、 政府高官、外国政府の要人などが狩りを楽しむ御猟場が開設。一般の人々の立ち入りは禁じられた。御料地と御猟場の存在が、構想に大きく影響したことは間違いない。
その後吉右衛門は計画が進まない中でも、漆の栽培などの拓殖活動や学務委員など地域教育に力を入れ、明治四十一年に構想の実現を見ることなく、七十八歳の生涯を閉じる。しかし、吉右衛門亡き後も住民たちの粘り強い運動は続けられることになり、県や国を動かす原動力になっていく。

建白書

明治18年に提出された建白書の絵図面
(矢吹町 星 信家蔵)

【看守たちの集合写真】

岩瀬御猟場には、三千羽のキジが棲息し、御猟場の看守たちは毎日見廻りを行い、棲息状況と密猟の取締りに当たった。看守たちの洗練された制服は町の人々の憧れだった。

豊猟のあとの集合写真

岩瀬御猟場
矢吹に舶来の文化の薫を運んだ岩瀬御猟場

三千ヘクタールにもおよぶ野生動物の楽園だった矢吹ヶ原は、明治になると御料地となり棲息するキジや野ウサギを対象とした宮内省直営の猟を楽しむ御猟場を開設する。岩瀬御猟場は、東京の植物御苑(現新宿御苑)にカモ猟、日光御料地にシカ猟の御猟場に次ぐ全国で三番目の御猟場で、大正14年に廃止されるまで当時に建てられた洋風建築の医院(現在は大正ロマン館)などの猟を楽しむ西洋の文化の空気を町にもたらした。
 御猟場は皇室の狩猟場であり、一般市民の立ち入りは禁止され、皇族や高位高官だけが許されていた。当時、東北本線矢吹駅の東側一帯は御猟場で、その好立地から東郷平八郎などの名士も訪れている。矢吹駅には貴 賓室が設けられていた。
 御猟場の廃止後も、矢吹国営猟区として昭和16年までその面影は残され、現在では大池公園の入口にキジ供養のための雉子塚が残されるのみとなっている。

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