フロンティア絶好調!ようこそ!日本三大開拓地、矢吹町へ

HISTORY

03
想いは繋がり、希望膨らむ土地へ
〜国営開墾事業の成果〜
昭和に入計り、画は本格始動

吉右衛門の意志は受け継がれ、矢吹のみならず周辺地域の悲願として、運動は粘り強く続けられていく。
 大正四年には、県南部の各地域の有志が共同で「矢吹ヶ原開田に関する申請書」を県知事に提出。実地調査が行われ、ほぼ吉右衛門の立案した計画に近いものが知事の答申としてあったが実現には至らず、その後も開墾事業と水利計画の要望が高まり、住民の県や国への陳情が繰り返された。
 転機は昭和の時代に入り訪れる。計画に影響を及ぼしていた御料地(2346ヘクタール)が昭和九年に県へ移管され、昭和十五年には帝国議会で開墾計画の予算が成立。国の事業として動き出すことになる。昭和十一年には、矢吹ヶ原開墾事業所、昭和十六年には農林省矢吹原国営開墾事務所が設置される。昭和十六年には、事業の肝となる羽鳥ダムの造成が開始され本格的な計画始動となった。
しかし、ここでも計画は時代に翻弄されることになる。日本は太平洋戦争に突入し、戦局は悪化の一途をたどる。戦中も工事は続行されていたが、資金および資材不足などにより進行は停滞してしまった。

矢吹の夢は、半世紀を経て実現

そして戦後。食糧難は深刻化し耕地の拡大は、待ったなしの国家的急務となった。凍結状態だった羽鳥ダム建設は、昭和二十五年に再び国の事業として再始動し、六年の歳月を経て昭和三十年に羽鳥ダムの開通式、羽鳥疏水の基幹工事が完成する。
最大の懸案だった農業用水の確保は解消されたが、広大な荒地を開拓することは並大抵のことではなかった。当時は工作機械もなく、ひたすら鍬をふるい木々の根を取り除く作業が続いたという。ようやく開いた畑に種をまいても、赤土の痩せた土地で作物は上手く育たなかった。食料は配給されたが、量が乏しく空腹と栄養失調の中、開墾事業は続けられた。
羽鳥疏水の完成と、住民達の血のにじむような努力により、矢吹町のほかにも近隣市町村(旧大信村・泉崎村・鏡石町・須賀川市)の1500ヘクタールもの田が開かれることとなった。星吉右衛門の死後、半世紀以上の歳月を経てようやく矢吹の人々の夢は現実のものとなったのだ。

  • ダムの工事風景

    台形状に盛り土をして堰堤を形成するアースダムで、灌漑用ダムでは日本屈指の規模を誇る。

  • 羽鳥村

    羽鳥ダムの湖底に沈んだ羽鳥村は、器などを作る木地職人が多く住む村だった。その住人の一部は矢吹に移住し、開墾に汗を流した。

  • 入植者の家

    飛行場跡に入植当時の家。(昭和35年頃)当時の家はすきま風がひどく、吹雪の翌朝は、枕元に雪が積もっていたという。

  • 矢吹町の田園

    羽鳥ダム・羽鳥疏水の通水が開始されると一面の荒野だった矢吹ヶ原台地に1500ヘクタールの田が開かれ、現在の矢吹の景観を成している。

04
開拓精神は
若い農業人へ
福島県農業総合センター農業短期大学校
愛称:「アグリカレッジ福島」

校内には、北海道を思わせる広大な敷地に、田畑やビニールハウスの他に牛舎や豚舎、教習所顔負けのトラクター運転練習場などがある。

昭和九年に御料地が県へ移管されると、開拓民の農業技術取得のため、県立修錬農場が開設される。この修錬農場が現在の福島県立農業短期大学校の前身にあたる。今も昔も県の基幹産業である農業の担い手を育成し続けている施設なのだ。
しかし、太平洋戦争中は悲しい歴史も併せ持つ。食料増産の国策の下で、満州開拓訓練所を併設し、1200人程を中国大陸に送り出し、その満州開拓団の伴侶として女子 短期拓殖訓練も行われた。
現在では「農短」と町民に親しまれ、農産を始めとした畜産や園芸など、さまざまな農業分野の学び舎として現在に至る。生徒達は52.1ヘクタールという広大な敷地の中、寮生活を行い、直売実習や学園祭には新鮮な農産物を求め大勢の住民が訪れる。 矢吹町弥栄地区は、修錬農場の第一期生が入植した地域。弥栄の地名は五穀豊穣・子孫繁栄の意味が込められている。当時は水があまり必要がない大豆や馬鈴薯の栽培で、冬場は出稼ぎに出ざるをえない苦しい生活を余儀なくされた土地は、現在その願い通りに美しい田園が広がっている。

気候と開拓スピリットが育んだ矢吹の野菜

矢吹町は福島県南部にある町。東北と関東の境に位置しているため、東北の冷涼な気候と関東の温暖な気候との寒暖の差が、農作物に濃厚な旨味をもたらしている。
また栃木県との県境の那須岳、福島県沿岸部(浜通り)との境にある阿武隈山地から吹き降ろす風により、温暖な地域の野菜から、高地の野菜まで幅広い農作物の栽培を可能にしている。また畜産農家も多いことから畜産作物の栽培も行われ、大震災によりパイプラインが破損したことにより、水が必要な水田に代わり大豆の産地化も行われている。
そして何より矢吹野菜を支える大きな特徴は荒野を切り拓き、水を引き込み豊かな農地を作り上げた〝開拓スピリット〞。
高糖度トマトを作り出すため長年地道に積み重ねられた研究や、最新設備を取り入れた水耕栽培など、実直な野菜作りへの姿勢と、いいものは柔軟に取り入れるオープンマインドが、今の生産者にも受け継がれ品質を支えている。

矢吹の米

町内の若手農業集団「ぐるぐるノーカーズ」と、東京農業大学の昆虫機能開発研究室がタッグを組んで、カブトエビを田んぼに放ち、無農薬栽培での環境配慮型の農業にチャレンジしている。収穫した米は、東農大の学食で提供されたり、厚木キャンパスで行われた「おいしい矢吹」野菜PRイベントで配布された。田植えや稲刈りなどの作業は矢吹町の小学生も参加し、首都圏との交流に一役買っている。

【愛国号】

愛国福島号が矢吹ヶ原に着陸(昭和7年9月18日)飛行機を一目みようと、近隣から5万人もの見物人が集まった。

矢吹飛行場
希望と悲劇を物語る「矢吹飛行場」

矢吹町文化センターと町役場の間に広大な駐車場がある。一見不釣り合いな大きさには、歴史の痕跡がある。そこにはかつて福島県初の飛行場が存在したのだ。  昭和三年に新聞社の企画によって、矢吹ヶ原に飛行機が飛来。当時は飛行場といっても住民有志が、荒地の草を刈り整地した程度だったという。その後には仮飛行場が設けられ、昭和七年には県民の寄付によって陸軍に献納された「愛国福島号」、また昭和九年には同じく県民が海軍に献納した「報国福島号」が披露のため飛来した。 昭和十二年にはその平坦な立地から、陸軍の飛行場として矢吹飛行場が開場する。戦況が活発になると陸軍飛行学校の出張所が置かれ、東西1500m、南北600mの滑走路、格納庫、兵舎が建設された。戦況が悪化の一途をたどる中、学徒動員令で召集された隊員の操縦訓練基地となり、訓練を終えた若者たちの中には、特攻隊に編成され沖縄の海に散った隊員もいる。  本土空襲は激しさを増し、終戦を迎える一週間を切った昭和二十年八月九〜十日の空襲により矢吹飛行場は破壊され、飛行場としての機能を失った。希望のシンボルとして出来た飛行場は、悲しい歴史を背負いながら、静かにその役割を

05
〜日本三大開拓地の交流〜
人智で切り開いた町の繋がり
先人たち来の想いを未へ

戦後の国営開拓で、街が発展した地域は矢吹だけではない。旧農林省の『戦後開拓史』によれば「数ある戦後の国営開墾事業の中でも特に規模が大きく、旧軍用地の解放などの共通点を持ち合わせた中で様々 な技術的困難を克服し、成功を収めた地域」として青森県十和田市、宮崎県川南町を挙げている。
 平成九年には、その三市町が〝日本三大開拓地〞として、開拓に汗を流してきた先人たちの功績を後世に伝えようと交流が開始される。平成十四年には、矢吹町で日本三大開拓地サミットが開催され、共同宣言により子ども達の相互交流が始まり、継続して現在も行われている。
東日本大震災では、被害を受けた矢吹町へ十和 田市や川南町から震災直後から飲料水など多くの支援を受け、平成二十二年の宮崎県の口蹄病問題の時は、川南町へ義援金を送るなど、開拓事業で切り開かれた3つの町は、兄弟のようにお互いを助け合いながら、結びつきを深めている。

  • 十和田市(青森県)

    青森県東南、青森市と秋田県鹿角市に隣接する町。真夏でも20℃程度の冷涼な気候の中、水稲、野菜、畜産などを組み合わせた複合経営の農家が多く、特にニンニクは生産量日本一を誇る。江戸時代末期から新渡戸稲造の祖父・新渡戸傳が引水事業を始め現在の農業の礎を築いた。

  • 川南町(宮崎県)

    宮崎市と延岡市を結ぶ海岸線のほぼ中央にある温暖な気候に恵まれた米、野菜、花、畜産などが盛んな農業地帯の町。戦後の大規模開拓地として、全国四十七都道府県から農業を志す人々が集まり拓かれたことから、「川南合衆国」とも呼ばれている。

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